そこが知りたい!

合唱団のスタート

  大分中央合唱団は1986年に発足しました。発起人グループは数人の高校時代の合唱仲間たちなのですが、それぞれが大学時代の友人や知人などに声をかけ、その年の4月頃から中心となるメンバーが集まり始めて、9月には合唱団名を決めるなど、一応組織だった動きは前から始まっていたので、どの時点を合唱団としてのスタートとするかはけっこう難しい問題ですが、やはり最初の練習で正式にスタートしたというのが妥当な線でしょうね。このため1986年10月25日から大分中央合唱団の歴史を起算することにしたわけです。さて、いくらやる気があっても合唱団として成立するためには指揮者や練習ピアニスト、それに練習場など必ずクリアしなければならないいくつかのハードルがあるのですが、それが指揮者もピアニストも最初から仲間としていたし、なによりもコンパルホールができて便利な場所にピアノのある練習場が確保できるなど、大きなハードルのほとんどが発足時にはクリアできていた。いや、むしろその見通しがあったからこそわいわいとまるで学生時代のように騒ぎながら、ひとつの合唱団を作っていくことができたのだと思います。合唱団を作っていく過程は本当に楽しかったのです。みんながチエを出すことを楽しんでいました。こんなに簡単に昔からの夢が実現していくものかと、ただ嬉しいばかりだったのですが、そのときはまだ、組織というものは作るよりも維持していくことのほうがはるかに難しいという、あたりまえのことにまったく誰も気がついていなかったのは確かです。

 ところで、「大分中央合唱団」という名前になぜなったかというと、当時の指揮者である宮本修氏・薬師寺和光氏のふたりとも大分市の中島中央町に住んでいたから・・ということだそうです。

 

(文責・友田 ※記憶違いがあるかもしれませんがご容赦)

 

季節へのまなざし

 スタートした日の練習に参加したのは、合唱メンバーとしては16人だったと思いますが、事前の盛り上がりに比して少ない人数にいささか青ざめたのは確かです。というのは、やはり財政問題です。この人数では常識的な会費では想定される経費に対して絶対に不足する、そう思ったからです。とにかく当面はおもなメンバーの手出しで進めて行くしか無い・・という悲愴な決断のもとでの滑り出しでしたが、1か月後の11月末にはメンバー数も35人に達して、これならなんとかなりそうだと(少し)ほっとしたのを覚えています。また、このころの練習時間はホールの規定から午後5時半から7時までという常識的でない時間設定の枠を選択するしか無く、まともにこられる人は少なかったので困ったことを覚えています。 まあ、細かいこととしてはプリントの紙だとかは余り紙とかを適当にかき集め、コピー代の安い店を探し回ったという記憶もありますが。

 思えば、最初の練習に参加した合唱メンバーのうち、2022年現在もメンバーとして残っているのはとうとう私だけになってしまいました・・・。 

 最初に取り組んだ曲は荻久保和明さん作曲の「季節へのまなざし」でした。最初にCDを聴いたときには、その新鮮な曲展開にいやこれは良いのではないか、と飛びついたわけですが、いざ練習を始めてみるとこれが想像した以上の難曲で、これまたいささか顔が青ざめた・・・ような記憶があります。何しろ一度か二度ほど練習に来たあと、来なくなる人が続出したので、どうしてだろうと電話してみると、「あんな難しい曲は歌えません」という返事がほとんどでした。たしか楽譜は50部以上取り寄せたはずですが、なんとか継続して練習に残っていた人は30数人というところでした。練習を重ねてもなかなか進捗が見えない苦しさは、今も思い返すとつらくなるほどですが、翌年の大分県合唱祭で(いささかてんやわんやながら)「ひらく」を披露したときはほんとうにほっとしたものです。全曲を演奏会で披露するのはそれからさらに2年後のことですが、いま合唱団の公式ロゴとして残っている「見えてくる見えない世界」というフレーズは、この曲からとったものです。このフレーズを見るたびに、なんとなく苦しかったあのころの練習を思い出すのです。

 

 

第一回演奏会を開催

 最初の演奏会を開いたのは昭和63(1988)年3月6日の日曜日のことです。会場は大分市コンパルホールの文化ホールだったのですが、このホールの500席のところチケットカウントはなんと535人で、これに受付などのスタッフの一部もホール内に入っていますし、ビデオ撮影のために中の一列をつぶしていたわけですから、少なくとも50人以上の方は席後方に立ち見であったわけです。ステージの上から見ていると、この立ち見の列が2列から3列へと増えていくのがわかるので、ほんとうに気が気でなかったことを覚えています。これ以上増えたらどうしよう・・・と見ているうちに増え方が緩やかになり、なんとか止まってほっとした記憶があります。ステージの上から見ると目の前つまり前方の席にはかなりの空席が見えていたので、次回からは座席への案内をどうするか、考えないといけないなあ・・などと思いながら、歌う方はほとんど上の空、という状況だったのです。まあ、次回からは会場を県立芸術会館に移したためにこのような心配は必要なかったのですが。

 この日の演奏曲目は第一ステージが「海鳥の詩」、第二ステージがポピュラー曲、最後の第三ステージは組曲「蔵王」で、筆者が朗読を担当しましたが、反響がリハーサルの時とは大違いで、マイク無しで声が届いているか心配していたものの、立ち見の後方にいた友人の話だと「まあまあ聞こえた」ということで、ほっとしました。最初の演奏会と言うことで裏方ではいろいろとてんやわんやの騒ぎもあったようですが、受付や楽屋などには団員の家族などを総動員しての対応だったわけです。楽屋口の張り番には、どこかで見たような男性が椅子にすわっていたのですが、この方はアルトのMさんの御主人で当時NHK大分放送局におられた方だったのですね。たしかNHKの番組ディレクターをしておられたのですが、その方を楽屋口の番人に使ってしまいました。

 ステージに立った団員数は41人と記録がありますが、当初は50人近い人数になる見込みだったのに、「カゼひき」が続出して休まれる方が多く、参加した団員もカゼで喉がおかしいという人もいて、やはり3月の演奏会はムリ・・ということで、次回から5月に変更した経緯があります。

 さて一般の混声合唱団としてどのくらいの規模が望ましいかは様々な意見があるでしょうが、大分中央合唱団ではこの第一回が41人の参加でスタートし、第3回まで概ね40人台前半で推移して、第4回の64人が最多の参加者、その後40人から50人というあたりを経て、第12回以降は30人台の後半となって一時は演奏会の開催が困難なほどの規模となった経緯があります。練習参加者が70人台となるとメンバーの管理にも手間がかかり、練習深度もまちまちでサポートが難しいところが出て来るなあ・・・というところも無視はできないと思っていますが、現在のメンバーとしては30人台に復帰して来ているので、まあ眼が届く範囲内だろうか・・・。

 

 

(文責・友田 ※記憶違いもあるかもしれませんがご容赦)

 

鼻濁音と無声化 そして二重母音

 著者はむかし民放テレビ局のアナウンサーだったことがあります。このため、合唱や声楽曲を聴いていてときどき気になるのが「鼻濁音」と「無声化」の問題です。いろいろと調べてみたのですが、アナウンサー経験があって合唱をやっている人を他に見つけることができず、明快な結論はいまだ出せずにいます。以下はそれらについていま考えていることなのです。「ことばの表現」という視点からであり、音楽表現からの視点というところはいささか欠けている点があるかもしれないのはご理解下さい。すみません、いささか長いですが、読み返してもカットできるところが無い・・・。

 

☆いわゆる「鼻濁音」の発音について

 「鼻濁音」とは、日本語の「ガ行」音は本来破裂音の濁音なのですが、鼻にかかって発音される、つまり鼻音化した「ガ行鼻音」のことをいいます。九州では一般の日常会話ではあまり意識することがないのですが、放送や映画・演劇・声楽等の舞台芸術の世界ではいわゆる「舞台語」として今も使われていますので、合唱の世界でもやはり濁音と鼻音の違いを意識して使い分ける必要はあるでしょう。というわけで、以下は、「鼻濁音は苦手だ」あるいは「どこが鼻濁音なのかわからない」という人のために、ガ行鼻音の発音法と発音原則の早わかりです。

1・鼻濁音の発音練習 やれば必ずできる!鼻濁音

①「鼻濁音」という以上、まず自分の鼻に響く音の実際を調べてみましょう。自分の鼻をつまんでふつうに「ガギグゲゴ」と言ってみて下さい。あまり響きが感じられないはずです。それは破裂音の濁音の響きで、鼻には響かない音だからです。

②次に鼻をつまんだまま、できるだけ「鼻濁音のつもり」で「ガギグゲゴ」と言ってみて下さい。少しでも鼻に響いているのが指に感じられたら、大丈夫!まず鼻濁音になります。しかし響きが①の時と同じか、ほとんど変わらないレベルというときは、鼻に抜いて響かせる練習が必要です。以下のようにやってみましょう。

③口を閉じたハミングで、鼻に「ンー」と抜けているのを感じながら、少しづつ口を「アー」と開けていきましょう。この時、必ず鼻と口と両方から息が抜けるように調整しましょう。「ンーアー」と移り変わる瞬間の響きをつかんで下さい。

④この「ンーアー」の響きの変化の感覚がつかめたら、その鼻の響きが変わる瞬間に「g」の音を軽く入れてみましょう。ほとんど同じ感覚で「ンーがー」と響くはずで、それがつかめたらもう大丈夫。「ンーイー」から「ンーぎー」と鼻音化が必ずできるはずです。(まあ、中にはどうしてもできない人もいますが・・・)

⑤では、実際の言葉で練習してみましょう。一番簡単なのは、上記のように口の開いたMやNの音からガ行音に移りNで終わる言葉です。次に他の音に移ります

  (カナの中のひらがなが鼻濁音として発音されることを意味しています) 

 満願 マンがン  万言 マンげン  文言 モンごン  呻吟 シンぎン  官軍 カンぐン  

⑥次は濁音で始まり鼻濁音で終わる言葉です。その違いを認識して下さい。

 玩具 ガンぐ     銀河 ギンが   軍議 グンぎ   言語 ゲンご

⑦(本当はまだステップがあるのですが)少し飛ばして、仕上げは濁音と鼻濁音の連続です。これができたらもう「上級コース合格」といえます。

 午後 ゴご        雅楽 ガがク      疑獄 ギごク      下獄 ゲごク

2・鼻音化の原則 いったいどれが鼻濁音になるの?

 前ページの練習課題でもおわかりかと思いますが、言葉の中の「がぎぐげこ」が濁音であるか鼻濁音であるかの区別には一定の法則(例外もあるけど・・)があります。とりあえず下記の①から③までは「基本原則」として覚えて下さい。

①  頭のがぎぐげごは濁音である。

 第一音節のガ行音が鼻音化することはありません。「学校」は「ガッコウ」です。

②語中・語尾のがぎぐげごは鼻音化する。

 第二音節以降にガ行音があると鼻濁音になります。「学芸」は「ガクげイ」です。 

③格助詞・接続助詞の「が」は必ず鼻音化する。

 「草や木が」は「クサヤキが」「蝶々が」は「チョウチョが」、「君は偉い、が、元気がない」は「キミハ エライ、が、ゲンキがナイ」など。 

④語の複合によって連濁化したものは原則としてすべて鼻音化する。

 「株式会社」は本来「株式+会社」ですが連濁化して「カブシキがイシャ」です。

※複合語の語中にある時はその語の「複合の度合い」で鼻音か濁音かを判断する。

  鼻音化する・・・ 小学校 中学校 大分郡 連合軍  

  鼻音化しない・・ 高等学校 音楽学校(オンがくガッコウ) 日本銀行   

⑤外来語・外国語のガ行音は原則として鼻音化しない。

 アレグロ スラッガー イデオロギー カーネギー ヴォルガ

 ※ただし「イギリス」は慣用的に「イぎリス」と鼻音化する。 

⑥数詞の「五」は語中にあっても鼻音化しないが、名詞化していれば鼻音化する。

  鼻音化する・・・ 十五夜(ジュウごヤ) 七五調 七五三 小五郎   

  鼻音化しない・・ 十五(ジュウゴ) 五十五 第五番    

⑦軽い接頭語、接頭語に類する語のあとのガ行音は原則として鼻音化しない。

 お元気(オゲンキ) 朝ご飯 不合理 非合法 お行儀(オギョウぎ)

⑧擬音語等の繰り返しは語中であっても鼻音化しない。

 ガラガラ ギリギリ グルグル ゲラゲラ 

 ・・さてここまで到達できれば、鼻濁音の基礎は(たぶん)完璧です。たとえいまは出来なくても、そう意識すれば必ず響きは変わります。やるだけやってみましょう。以上述べたことは一般的な現代日本語の口語発音での原則であって、舞台芸術においては異なることはあります。また特に音楽では音価・音高との関係もあり、これらの原則通りにいかない(たとえば力強さのためにあえて濁音で固く発音する)こともあるので、最終的にはそのつど指揮者に確認が必要でしょうね。

 

 

☆いわゆる「母音の無声化」について

 次に、これは「無声子音」とか「母音の無声化」といわれる発音上のルールの問題ですが、実は歌う上では「鼻濁音」よりももっとモットややこしく難しい問題があると(私は)考えています。

1・無声化はいわゆる「標準語」の「歯切れの良さ」のモト・・・なのですが

 話し言葉で「大阪弁」「京都弁」などのいわゆる関西弁発音と、「標準語」または「共通語」のベースである東京語発音とを比較すると、関西弁はどうもゆっくりした、あるいは間延びして聞こえるという人は多いのですが、実際に単位時間あたりの音節数で比較するとそれほど大きな差は無いのです。ではなぜそう聞こえるかというと、今回のテーマ「母音の無声化」がそこに大きく関係しているのです。

 結論を先に言いますと、日本語発音の単音は「子音+母音」の組み合わせ(母音のみもあり)が基本であるのに、いわゆる標準語発音(またそれが純化された形での舞台語発音)では、連続した音節のある特定の音で「子音+母音」のうちの「母音」の発音が弱く、あるいはまったく無くなって「子音」のみ発音されることがありますが、これが全体として言葉のリズムとスピード感を産んでいるのです。よく東京弁が「歯切れがいい」などと表現されるのは、この無声化が大きく関係しており、それが「歯切れの良さ」のモトともいえます。(近年東京中心部では気忙しいほど一層の無声化が進む傾向も見られるようです)

2・だが、声楽で「無声化」をどう扱うか方法論が確立していない

 さて問題は、音楽表現上無声化・無声母音をどう取り扱うかですが、「子音+母音」のうち「音」としての性格付け(音価及び音高)はボディである「母音」によってほとんど決定されるので、完全な無声音は音程を持つことができません(子音だけで歌えませんものね!)。このため、メロディの中の位置づけによっては必然的に逆に有声化してしまうことがありえます。しかし、そうなると舞台芸術としての標準的な日本語発音からは離れることになりますから、極端な場合まったく異なる言語表現(つまり日本語に聞こえなくなる・・)ともなりかねません。これはアクセントの問題とともに、山田耕筰をはじめ日本歌曲に取り組んだ作曲家たちが共通して悩んだ難題であり、いまだに明快な解答は出ていないと考えています。

3・とりあえず、あなたの発音の「無声化」を確認しよう

 まーこのへんの問題は考えれば考えるほど難しいですから、あまり深く考えずにとりあえず実地のお勉強をしてみましょう。まずアゴの先端と首の付け根のちょうど中間地点あたり(いわゆるノドボトケのあたりです)を軽く指でつまんで「あいうえお」と言ってみましょう。すると指に声帯の振動が伝わるのがわかりますか? これは「有声音」として発音されていることの証明(九州では無声化ができない人は多いのですが、日常生活では意識することは無いでしょう)です。要するに母音「あいうえお」はすべて有声音なのです。しかし音が有声化しない場合、つまりアゴの下につけた指が全く振動しない場合もあり、それが「無声子音」あるいは「母音の無声化」という現象なのです。つまり母音の無声化というのは、母音の口の構えはするが実際には声帯を振動させずに息だけで発音することを言います。では、どんなときに母音の無声化は起きるのでしょうか?

4・これが「無声化」の基本パターンだ・・ちょっと難しいけど、読んでみて

 イ・単語の中に「i・u」を含む無声子音と無声子音にはさまれた音がある場合、前の音の母音を無声化する。

    →つまり、プクスツフ(i・u)+プクスツフの場合、前のプクスツフの「i・u」は無声化する。

     例:「菊」<KiKu>→<K(i)Ku>と発音。「規則」<K(i) SoKu> 「国際化」<KoK(u)SaiKa> など

 ロ・プクスツフ(i・u)が語尾になる場合は無声化(母音の脱落ともいいます)する。(ただし、そこにアクセントが無い場合に限る。)

    →例えば、「ございます」「あります」「勝つ」「破棄」「足」など、最後の音は子音だけになります。ただし「ありますが」「ございますけど」など、その後に何か言葉が続く場合は無声化しない。

 ハ・プクスツフ(i・u)以外の、プクスツフ(a・e・o)も例外的に無声化する場合がある。(まあ、下記のようなケースもある・・程度で十分)

    →例えば、「かかし」<K(a)KaShi> 「かかと」<K(a)KaTo> 「ところてん」<T(o)KoRoTen>などです。

 簡単にまとめますと、実際の話し言葉ではもともとの音の性格(口の開きが小さい)上「シ・ス」と「キ・ク」の音の時に無声音になりやすい、と思って下さい。

5・結論として、音楽表現での「無声化」はどうする?

 前述のように「話し言葉発音」と「音楽表現」の無声化は同じではありません。音楽表現上、子音は本来音価・音高を持てないので、音程を形成するのは母音ですから、旋律の中の発音では無声化できないケースが当然出てきます。ではまったく無声化を無視していいのかというと決してそうではなく、旋律の中であっても「子音+母音」のそれぞれの響きの比率をコントロールして、子音を際だたせながら母音を響かせて音程を確保し、なおかつ日本語として正しく伝えるという発音技術が音楽表現には必要だし、それは十分に可能だと考えます。なぜなら、母音が聞こえなくても、その音の口構えの形は維持されているからです。また無声化するとしても、集団としてどの程度子音の響きを強調すればよいかは自分たちではなかなか判断できません。これも音楽表現の技術として最終的には全体のバランスを聴きながら指揮者が判断すべき問題ですが、本来無声化すべき音であるかどうかは、メンバーとしては少なくとも知っておく必要があるでしょう。難しい話でした。ごめんなさい。

 

☆鼻濁音と無声化の記憶

 これら「鼻濁音」と「無声化」について筆者が考えるようになったのは、勤務先の異動で大阪支社に勤務した頃に遡ります。多少合唱活動に参加したこともあって関西の合唱団の演奏などを聴いていたときに、ふとこの問題を考えるようになったのです。関西の合唱団は、鼻濁音についてはほとんど気になるような破裂音・濁音化傾向は感じられず、柔らかい響きの発声のところが多かったのですが、その反面かなりの合唱団で母音を引きずるような有声化傾向があるな、と感じたわけです。指揮者やボイストレーナーの人に聴いてみても、鼻濁音については意識してはいるものの、無声化についてはほとんどの人が意識していない、ということも知りました。筆者は東京地方の合唱団の歯切れの良い、ややクールとも思える歌唱法が好きな面もあって、余計に感じられるのかもしれませんが、アナウンサー経験者としては「無声化」の問題があるな、と考えたわけです。

 実は、九州ではだいたいこれら鼻濁音とか無声化を日常意識することは無いはずです。このため九州出身のアナウンサーにとっては、この「鼻濁音」と「無声化」それと後述の「二重母音」の発音は基礎でありながらけっこう大きな問題で、特に最近の若いアナウンサーには仰天するような人がいます。筆者のように旧世代に属するものとしては、この人発声訓練はしたのだろうか・・あるいはいったい誰が教えたのか!と思うこともあるのです。まあ・・筆者のアナウンサーとしての先生・先輩はこんなところを見に来ることは無いはずなので、大きな事を言っています。筆者は、入社当時はほんとうに「あいうえお」の基礎的な発音から毎日々厳しくたたき直されて、あまりの口惜しさに涙したことがあります。

 

 

☆二重母音の長音化について

 これは以前の「海の詩」の練習の時に指摘されたことがあるのですが、難しく言うと共通語発音での、「二重母音の長音化」ということになります。この「二重母音の長音化」として指摘されたのは、2曲目シーラカンスの中の、「文明も革命も」というところで、「ぶんめいもかくめいも」と発音して歌っているのを、「ぶんめーもかくめーも」と発音して下さいと言うことでした。

 それは、ひとことで言いますと、特に名詞における書き言葉的な「えい」という母音の連続を、 共通語の話し言葉的な「えー」という長母音で発音すると言うことです。このように長音化するケースとしては、語尾の「えい」と「おう」のケース、「おお」と「「いい」のケースなどがあります。これは語尾だけでなく、語中のケースもいくつかあります。  具体的には、例・・「陽炎」で「かげろう」ではなく「かげろー」に、「墓標・ぼひょー」「文明・ぶんめー」「革命・かくめー」「感情・かんじょー」「太陽・たいよー」「鈍行・どんこー」「昏迷・こんめー」 「楽浪・らくろー」「王・おー」など。また「通り・とーり」とか、「もう・もー」など副詞的な言葉も該当すると思います。

 ただ、「海流・かいりゅー」はともかく、「自由・じゆー」「女王・じょおー」のようにすると、 むしろ言葉が聞こえにくい場合などは程度問題で軽く二重母音でもいいのではないかと思います。これは日本語で音楽をやるときにつきまとう問題のひとつだろうと筆者は思っています。この、例えば「えい」という母音の連続を、「えー」という長母音で発音する、と書いていますが、それに対して、「なぜ?どうして?」とお思いでしょうね。答えとしては、「決まりは無いけど、現代はその方が自然です」というしかないです。いちおう「舞台語発音」という考え方があって、これは日本ではむしろ「放送系発音」かもしれませんね。ベースになっているのは、もちろん「東京語発音」から「東京方言発音」を除いた、いわゆる「共通語発音」です。アナウンサーの発音・・・と思っていただいてもいいです。 そのような、共通語発音ベースの「舞台語発音」的見地から見ると、二重母音をそのまま二重母音として音楽に載せると、すごくのんびり野暮ったく聞こえるように感じます。東京で音楽やってる人が、音楽での二重母音発音を聞くと、かなり気持ちが悪いそうです。その感覚、実は私もわかります。 なんか、そこで根本的な日本語のリズムが変わる感じなのです。例えば「文明も革命も」を、二重母音として発音しながら歌うと、歌いながら「ぶんめいもかくめいも」と、フレーズの中で口がえいえいと動きますが、「ぶんめーもかくめーも」と発音すると、口の動きが少なくて、また軽くなると思います。

 まあこのへんいろいろと異論はあるでしょうが、これがすっきりした発音として聞こえる・・と思う人が多かったから、現実には二重母音は長母音として発音する・・というのが事実としての標準なのではないかとおもうのです。 声楽的表現では、全てその通りに行かないのはもちろんですが、それを旋律・リズムという制約の中でどう生かして行くかが、結局は「技術」なのだと思います。例えばコンクールのような場所では、だから、邦人曲が不利だと言われるゆえんでもあります。それと、西日本特に九州では、それを意識していない合唱団が多く、高校などで野暮ったく聞こえるのはたいていこのようなケースではないかという気がします。

 

 

レクイエム

 「大分中央合唱団はレクイエムが好きだね」と言われたことがあります。そうかなーと思って数えてみたら、30年間にフォーレは1992・2001・2015年の3回、モーツァルトは1997・2006・2016年の3回と、合計6回も演奏会にかけているのだからそう言われても仕方がないですね。もちろんフォーレ・モーツァルトともに古今の名曲中の名曲であり、筆者個人としても大好きな曲なのですが、特にフォーレのレクイエムには忘れられない想い出があります。将来の合唱団を託すに足る人材と期待していた大塚茂喜くんがこの世を去ったのは1989年1月のことでしたが、彼の部屋のレコードプレーヤーにはフォーレのレクイエムのLPレコードがかかったままになっていました。1992年にカトリック大分教会で開催したフォーレ・レクイエム特別演奏会は、亡き大塚茂喜くんのためのレクイエムでもあったのです。

 上記の写真は1992年のカトリック大分教会でのフォーレのレクイエム特別演奏会の写真ですが、このときの「写真」が無いので私のビデオカメラで撮影したものからのスナップショットで画質は悪いです。はて、このときは「写真」撮影の手配をしていなかったのだろうか?録音は一応業者に依頼してあったのですが・・・。

 (指揮:薬師寺和光 ソプラノ独唱:漆間磨理 バリトン独唱:宮本修)

☆ レクイエム 作品48   ガブリエル・フォーレ (1845-1924)

  「レクイエム」はラテン語で「安息を」という意味の言葉で、一般に死者の安息を神に願うカトリック教会のミサで用いられる聖歌のことをいいます。1887年、フォーレ42歳のときのこの曲は、彼の代表作であると共にフランス教会音楽の代表傑作といっていい作品ですが、他の作曲家のレクイエムとはいささか異なって「怒りの日」や「恐るべき御稜威の王」などの曲がなく、このため「死への恐怖」を強調していないのが大きな特徴であり、むしろ「安息を・requiem」という言葉がテーマとなって至福にみちた静けさが漂い、誇張したり華麗な表現はまったくなく、繊細で美しい響きが全体をみたしています。

  作曲の動機としては、父親が1885年に死去したことがよくあげられていますが、フォーレ自身は「特定の人物や事柄を意識して書いたものではない・・・あえていえば楽しみのためだろうか」と書き残しています。作曲技法的には大胆な転調が多く、演奏は比較的難度の高いものとなっていますが、それがこの曲の天国的な美しさに独特のメリハリ感をかたち作っているともいえるのです。曲の構成としては、曲中の「リベラ・メ」と「天国に」の2章は本来のミサの聖歌ではなく、ミサのあとの出棺の儀式で歌われる聖歌であり、カトリック教会の典礼に必ずしも忠実に準拠したものではない(フランスではあるらしいが)こともひとつの特徴となっています。またこの曲は比較的大きな編成のオーケストラで演奏されることが多いのですが、フォーレ自身によるものは最初のころはオルガン伴奏のみか、小編成の器楽合奏を伴奏とするものであり、大編成の管弦楽の編曲は作曲者自身のものではなく弟子のジャン・ロジェ=デュカスによるものではないかとされているようです。

  彼自身はこの曲への批判に対して以下のように語っています。 「私の『レクイエム』・・・・は死に対する恐怖感を表現したものでないといわれており、中にはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいた。しかし私には死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというよりむしろ永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない」  フォーレは1896年からパリのフランス国立高等音楽院の作曲科教授をつとめ、1905年から1920年までは音楽院院長の職にあって抜本的な改革を断行してその厳しさから「ロベスピエール」とあだ名をつけられたそうです。またその門弟にはモーリス・ラヴェル、ロジェ=デュカスなどがおり、優れた音楽教育者としても知られています。晩年は難聴のほか音程が狂って聞こえるという聴覚障害に苦しんだそうで、精妙な和声表現に心を砕いたフォーレにとってはあまりに残酷な病気だったと思います。

  筆者は知人の葬儀の席でこの曲のPie Jesuが流れるのを聴いて、予期せずほろっと涙がこぼれた記憶があります。

☆レクイエム ニ短調 K626 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (1756~1791)

 「レクイエム」はカトリック教会で歌われる「ミサ曲」の中で特に死者のためのミサで歌われていた曲のことですが、現在ではカトリック教会の正式の典礼からは除かれており、通常のミサの中で歌われることはまずありません。しかしモーツァルトが生きていた時代は有名な音楽家はそのほとんどが大聖堂の楽長など、つまり教会お抱えの音楽家だったので、具体的に誰かを追悼するため典礼どうりに作曲されたものがほとんどなのです。この曲もその例外ではなく、フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵という貴族が亡き夫人のためにモーツァルトに作曲を依頼したということがわかっています。ところがこの音楽好きの伯爵は匿名で作曲してもらった曲を「自作」として発表するという、今日の著作権の感覚からは考えられないことをしていました。もちろんこの曲も伯爵に渡されて自作として披露されましたが、実は別に写譜が残されていて、すぐにモーツァルトの作品として発表されます。面目丸つぶれになった伯爵は約束が違うとしてカンカンになるわけですが、買い取った権利を強く主張すること無く、そのままになったため世に出たという経緯があります。

  さてこの曲の作曲中にモーツァルトは亡くなり、曲は未完成だったことはよく知られていますが、依頼主から作曲料を全額貰うためにどうしても完成させる必要があったのです。そこで夫人のコンスタンツェが最終的に依頼したのが助手だった当時25才のジュスマイヤーで、モーツァルトの曲想スケッチなどをもとに全曲を完成させました。すなわち「ジュスマイヤー版」とはモーツァルトが未完のまま残し、ジュスマイヤーが補筆完成させてこの世に現し、この2世紀にわたり演奏されて来たバージョンのことなのです。しかし当初からジュスマイヤーが独自に追加作曲した後半部分はもとより、オーケストレーションなどについての批判は根強くあり、1971年にフランツ・バイヤーがモーツァルトの様式に近いという形で修正を加え、「バイヤー版」として演奏されるようになりました。さらに「モーンダー版」、「ランドン版」などの修正版が提案されましたが、「モーンダー版」に至ってはジュスマイヤーの補筆を否定する立場から、ジュスマイヤーによる「ラクリモサ」の第9小節以降をカットして新たに作り直したほどなのです。

  当合唱団が2016年に演奏した「ロバート・レヴィン版」は1991年のレクイエム作曲200年記念演奏会のために新たな改訂版を依頼されたもので、その基本的立場は、この曲の2世紀の歴史を尊重しながら、ジュスマイヤー版における楽器法上・規則上・構造上の問題に目を向けようとした・・とされており、この曲の修正最新版ともいえ、「ラクリモサ」のあとに「アーメンコーラス」を追加作曲した以外は全体として比較的小さな修正にとどまっています。とはいえ、ジュスマイヤー版に慣れていた人(筆者を含めて)たちには意外と難しかったのは事実です。

(この文については海老沢敏氏の著作を参考にしております)

 

 

 

☆「レクイエム」って、なんだろう?

「レクイエム」とは、いったいなんのことなんでしょうか? 皆さんがお持ちの「レクイエム」の日本語版合唱楽譜の解説では、たぶん「Missa pro Defunctis 死者のためのミサ曲」という説明があるはずですが、要するにカトリック教会の中で歌われる「ミサ曲」の中で、特に死者のためのミサで歌われていた曲のことなのです。歌詩の冒頭や途中に繰り返し「レクイエム」という言葉が出てくることから、このように呼ばれるようになりました。その冒頭の一節は以下のようになっています。

Requiem aeternam dona  eis   Domine
安息を  永遠の   与える  彼らに 主
訳 : 主よ、彼らに永遠の安息を与えて下さい

 構成を見てみますと、「死者のためのミサ」といういささか特殊なミサのため、「グローリア(栄光の賛歌)」や「クレド(私は信じる)」などは無く、逆に「ディエス・イレ(怒りの日)」や「ラクリモサ(涙の日)」などが入っています。 もっとも現在ではカトリックの正式の典礼からは除かれているため、特別な機会でもないかぎり、これが教会の通常のミサの中で歌われることはまずありません。もとは教会音楽ですが、いまは教会から離れた演奏会用の音楽になっているわけです。

  さて皆さんご存じの通り、「レクイエム」の歌詞は「ラテン語」で書かれています。このテクストは1570年に定められた「ローマ典礼」による一定のもので、作曲者はこれを変えようがありません。というよりも、この時代ぐらいまでは有名な音楽家はそのほとんどが大聖堂の楽長、つまり教会お抱えの音楽家だったので、「非典礼的レクイエム」などという実用性のないものが成立する余地はなかったのです。教会以外で自由な「音楽作品」として演奏される「非典礼的レクイエム」の登場は、ベートーベン以降とされています。

 おもな「レクイエム」の音楽作品としては、初期のものとしてはラッスス、ビクトリアのものがあり、18世紀ではハイドン、モーツアルト。19世紀に入るとヴェルデイ、フォーレ。20世紀には、ピツェッティ、デュリフレなどがあります。ちょっと異色なものではブラームスの「ドイツ・レクイエム」や、ブリテンの「戦争レクイエム」などがありますが、もちろんこれらは典礼とは関係なく書かれています。いずれにせよ、作曲者の代表曲と言うべき作品ばかりですね。

  「レクイエム」のことを日本では「鎮魂ミサ」という訳し方をすることがありますが、実はこれは「死者のためのレクイエム」本来の意味からはいささか離れています。それは、冒頭の「Requiem aeternam dona eis Domine (主よ、彼らに永遠の安息を与えて下さい)」という一節でもうかがえるように、「レクイエム」とは死者に対する罰を軽くして下さいと神に祈るものであって、直接死者の魂を鎮めるものではないからです。ううむ、このへんは日本人にはなかなかピンと来ないところですが、敬虔なカトリックの信者さんたちには大きな問題ではあるわけです。

 

 ところで、「ミサ」とは何かというと、日本語では「聖餐式」と訳するようですが、初期キリスト教では信者が集まって食事をすることが重要だったようです。語源的には「missa」は「解散」を意味するとのことで、英語ではmass、独語ではmesse、仏語・伊語でmissaとなっています。千葉の「幕張メッセ」のmesseはドイツの「見本市」にちなんだものだそうですが、この「ミサ」とは語源的には親戚にあたるようですね。

  余談でした。

 

 

 

Ave Maria 聖母マリア信仰について  

  ずいぶん前のことなのですが、Ave Mariaの曲を練習していた頃のことです。団員の女性からこの曲についての質問を受けたのですが、それを機会になるほどと思ったのが「マリア」とはいったいどういう位置づけなのだろう・・・ということなのです。筆者は、(信者では無いけど)幼稚園と大学がカトリックのミッションスクールで、高校時代にプロテスタントの教会で聖歌隊に属し賛美歌を歌うという、いささか節操の無い経験を持っているのですが、そういえばプロテスタント教会でAve Mariaを歌った記憶が無い。そこでキリスト教の世界を冷静に見てみると、いくつかの面白い現象というか一種の矛盾に気がつきますが、そのひとつがいわゆる「聖母マリア信仰」(マリア崇敬とも言うが意味に微妙な違いがある)です。

 「聖母マリア信仰」とは、ひとことで言えばキリストの母であるマリアを信仰の対象とするもので、実は現代においてもスペインやフランス、イタリアなどカトリック教会が主流の国においては本来のキリスト信仰以上に盛んなのかもしれないのです。しかし、これは「唯一神」であるはずのキリスト教において、重大な矛盾ではないかという批判があるのです。たしかに、聖書にはマリアを神聖な存在とするような記述はありませんから、聖書に忠実であろうとすると、そうなるというわけです。実はキリスト教の信仰の中にはそれ以前の宗教や民間伝承・土俗的な言い伝えも多く入りこんでおり、この「聖母信仰」も古代ギリシャ・ローマ等の多神教である「太陽の女神」あるいは「大地・豊穣の女神」信仰にとって代わったものと考えられ、このためむしろ庶民にとってはキリスト以上に受け入れやすかったものと思われます。 たとえば教会の彫刻や絵画、あるは教会の建物そのものは、字の読めない庶民たちを対象として誰にでもわかり、しかも敬虔な宗教心を喚起させて感動させるために作られたものだから、とにかくわかりやすいことが第一で、さらにひれ伏さざるをえないような荘厳さも同時に必要だったからであり、教会の側からも「マリア信仰」と結びついた大聖堂はわかりやすい布教手段でもあったのです。ルネサンス以降、美術や音楽という芸術の世界でも「聖母マリア」は重要なテーマとなり、数多くのマリア像やマリア賛歌が残されているのはよく知られているところです。

   もちろんプロテスタントはローマ教会の偶像崇拝傾向に対して宗教改革を唱えて分離したという歴史があるので、「聖母信仰」などはキリスト教の本義からはずれるものとして一般に否定的で、たいていのプロテスタント系の教派で教会堂の中にマリア像などを見ることは無いのです。最近ではカトリック教会の中でも「マリア信仰」の行き過ぎに対する批判もあり、伝統的なマリア擁護派との間で内部的な論争が繰り返し起きています。(無原罪の御宿り・・マリアの誕生自体が原罪を免れているという考えで、1854年教皇ピウス九世が正式にこれを教義と認め、いったん論争は終結したかに見えたが、依然として論議されている)  

 さて、これら「マリア信仰」を音楽面から見ますと、直接マリアを讃えるAve Mariaなどは歴史的な名曲揃いですし、Stella Marisなどマリアの別名で讃えるものなども数多く、いわゆる宗教曲の一大ジャンルでもありますが、これらのいわゆる聖母マリア賛歌がプロテスタント系の教会内で公式に演奏されることはまず無いだろうと思っています。ごくふつうの日本人にとっては、カトリックもプロテスタントも何が違うの?という感覚が一般的でしょうが、例えばヨーロッパのようにカトリックが優勢な国とプロテスタントが優勢な国が入り組んでいる地域では、これがけっこう微妙な問題のようなのですね。ある日本人演奏家が、オランダ在住時に友人の娘の結婚式に招待され、教会での式中にお祝いの音楽を依頼されたのでAve Mariaの曲を演奏したところ、雰囲気が微妙になって不思議に思っていたのですが、その後の披露パーティーの席で「我々の(プロテスタント)教会でわざわざマリア賛歌を演奏したのは何か意図があってのことか」と真顔で問われてやっと事態を理解した、という話をきいたことがあります。また北欧などプロテスタント系諸国では合唱活動が盛んな中でも、これらマリア賛歌については日常的には唱うことが無いという厳格な合唱団があるとも聞いています。 日本においては、ふだんはこんなことを意識することはまず無いのですが、考えてみればこれは信仰の問題、即ちその人の信条あるいは生き方に関わる問題ですからね。敬虔なプロテスタントにAve Mariaを歌わせることは、場合によってはその人の生き方を否定することにもなりかねないことを、いちおうあたまのすみに意識しておく必要はあるんじゃないかと思っています。まあ、「やおろずの神」がいるという日本は、この点は気が楽ですね。

 ※筆者は高校時代プロテスタントの教会で聖歌隊であり、大学はカトリックのミッションスクールで一般宗教学と宗教史というタイトルのカトリックキリスト教学とキリスト教史を学びましたが、専門的な分野に立ち入っての知識ではありませんので上記については間違いがあるかもしれません。

ラテン語の発音はいろいろあって   

 2017年の演奏会はカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」でした。この曲を聴いてくれた知人が言うには、「すごいねえ、なんか難しい言葉で歌いよった」ううむ、たしかにあの曲の歌詞はラテン語と古いドイツ語が入り交じっているところがあって、難しい言葉というのはその通りなのですが、どのみち歌う方はカナをふって覚えたりしているわけで・・・。ただ、ラテン語という言語は母音の数が5ないし6音と日本語に近く、16もあるフランス語に比べると日本人には比較的発音しやすい・・という面もあるのですね。

 ところで、筆者が最初にラテン語に触れたのは大学の1年生のときだったと思います。それまでも「キリエ」という曲で「Kyrie eleison 」というフレーズには触れていたのですが、それがラテン語(もとはギリシャ語から)だという明確な意識は無かったと思います。 もう半世紀も昔のことで記憶も薄れかけているのですが、たしか宗教学の補講(なにぶんカトリックのミッションスクールのため必修で、病欠届を出していても出席日数には厳しかった)のためだったか、講師である若い神父とマンツーマンの授業だったと思うのですが、その神父も一般宗教学の補講なんか始めてで、何を話したら良いか判らずいかにも困ったようすでした。そこでとんちんかんなやりとりの末に、私から切り出したのが「ラテン語を教えて下さい」ということだったと思います。神父も突然のことで驚いただろうと思いますが、私が聴きたいのはミサ曲の歌詞の発音だと知って、さらにとても困ったようすでした。「初歩的な読み書きはできますが、発音はねえ・・」という返事に、神父なら誰でもラテン語はできると思っていた私もびっくりしたのです。(ううむこのへん何か別な時の会話と混在しているような気もしますが・・・)それでも、たしかグリークラブで練習するはずのデュオウパのミサ曲の2曲目Gloriaを読んで貰ったと思うのですが、それはのちにグリークラブ内で教わった発音とはいささか異なるものでした。いま考えますと、どちらかというと神父の発音はドイツ風あるいは古典風のところがあり、クラブ内ではややフランス風の発音だったのではないかと思います。歌唱上のラテン語発音は「教会式」が基本だと言うことを教えられたのは、それからずっとあとのことでした。

 さて、大分中央合唱団ではフォーレ・モーツァルトを合わせて6回にわたる「レクイエム」のほか、ミサ曲やモテットなどでかなりの数のラテン語歌詞の曲に取り組んで来ました。これらのラテン語の発音は基本的に「教会ラテン語」発音に準拠していますが、指揮者の指示で歌いやすく、あるいはお客が聴きやすいように発音を変更したりはしています。これは、現在のラテン語発音には何が「正しい」かという決まりが無いからなのです。 ラテン語は、今ではローマのヴァチカン市国以外では公用語として使われることは無い言語ですが、いわゆる「宗教曲」がローマ帝国の全盛期以降に作曲されるなどしたために当時のローマ勢力下にあった地域の共通言語であったラテン語の歌詞(多くはラテン語聖書から)に作曲されたのは当然のことで、それが現在はミサ曲を中心としたいわゆる宗教曲がラテン語歌詞であるひとつの原因ともなっているわけです。

 この、「教会ラテン語」発音は20世紀の始めに教皇庁から「教会内で歌われる場合はこのような発音が望ましい」という趣旨の文書が発行された(1903 Motu Proprio)ので、「教会ラテン語発音」という呼び名があると聴いていますが、要するにその当時のヴァチカン市国で発音されていた、つまりはローマふう(イタリア訛り)の発音であるわけです。たとえば、古典語では「カエサル」であるのが「チェーザレ」であり、「セシリア」が「チェチェーリア」「エクスケルシス」が「エクシェルシス」となったなどです。

 本題からははずれますが、カトリック教会のミサの式次第が統一されたのは500年近く昔のことで、16世紀半ばのトレントの公会議(宗教上の重要課題を討議する会議)で、当時はところによって違いの生じていたミサの式次第を、各教会での独自の変更を許さないことを決めたのです。これは各地で盛んになりつつあったプロテスタント運動に対抗するためでもありました。この結果、1570年に「ローマ典礼書」が発布されて、ラテン語で行なわれるミサの言葉を各国語に訳すことは、その過程でプロテスタント的な考えが混入することを防ぐために禁止されたのです。時代とともにミサ形式の変更が行なわれたのは比較的最近のことで、1962年からの第2バチカン公会議でラテン語以外の各国語でのミサが許されるようになり、現在の日本ではラテン語によるミサはほとんど行なわれていません。(しかし、筆者が学生時代のこと、イグナチオ教会でのミサではラテン語だったような記憶があるのだが・・・)

 まあ、これらの事情から歌詞の上では統一されたものの、発音的には各地の言語の影響を受けて「ドイツ風」「フランス風」などの発音がそれぞれに成立した経緯もあるわけです。日本の合唱団がラテン語の曲を歌うと、それは「日本風」になるのかもしれませんが、晋友会がカルミナ・ブラーナを歌った録音を聴くと、正確に教会ラテン語発音に沿っているように思えて感心してしまうのですけどね。 大分中央合唱団では、ただラテン語歌詞を読めと言っても経験が無いとムリなことはわかっていますので、これまでも難しそうな曲ではただカナでの発音表示だけで無く、できるだけ教会式ラテン語発音に沿った発音ができるよう基礎的なラテン語単語の逐語訳や文節訳に合わせた発音表を作って配布しています。もちろんこれはひとつの基本であって、実際には指揮者の指示で表現上の理由から濁るべき音を清音に換えたりしてはいるのですが、まったく知らない人には多少なりとも役に立っているはずです。 参考までに、その基本的な「レクイエム」のラテン語全文発音表は「こちら」です。

 

 

ラテン語発音の「リエゾン」

 ラテン語発音では、原則として「次の言葉とリエゾンしない」ということですね。この「リエゾン」とは、ご存じの方も多いと思いますがフランス語の「Liaison」繋がる・連続するという意味で、要するにフランス語の前後の単語の関係で複数語が一体となって発音される、たとえば「comment allez-vous コマンタレブー (ご機嫌いかがですか)」のようなケースのことをいいます。この場合単語では発音しない音が発音されていますね。ただ一般にはフランス語に限らず、単純に発音上くっついてしまうケースのことも言うようですが・・・。

「liaison リエゾン」英語だったら「relation」にあたります。前述のように複数の単語が連続して発音されるときに、新たな音が生成されることをいい、例えば単純なケースとしてはラテン語の「イン」と「エクシェルシス」が連続して、「インネクシェルシス」と、新たに「ネ」の音が発現したことなどをさすようです。もともと古典ラテン語発音ではリエゾンが無いはずなのですが、音楽の世界で使われる教会ラテン語では、フランス語とか現代イタリア語発音とかの影響でリエゾンすることがしばしば起きるようです。 フランス語では、このリエゾンが当たり前というかひとつの特徴になっていて、このリエゾンの法則を理解して使いこなせるかどうかでフランス語発音の上達が決まるときいています。(最近はパリの若者達はめちゃくちゃだそうですが・・)このリエゾンは、もちろんフランス語と、その影響を強く受けた英語にも見られますが、ラテン語にはもともとこのようなリエゾンの概念は無かったようです。それは、古典ラテン語にはアクセントの法則と子音+短母音・長母音などの発音の原則が明確にあって、単語がリエゾンしてアクセントや発音が変化するということが原則として無かったからのようです。

 ただ、例として「荒野の果てに」という聖歌を見ますと、これはフランスの古いキャロルで、もちろん原詩は「Les Anges dans nos Campagnes」という題名のフランス語詩ですから、この中の本来ラテン語の in excelsis もフランス語の影響で「インネク・・・」とリエゾンさせて発音させるのでしょうね。 ええと、話が逸れますが、リエゾンのいい例を思いつかなかったのでいろいろ調べてみたら、こんなのがありました。フランス語の「vous」は「あなたがた」という意味で、「ヴ」と発音します。これが、「vous mangez」となると、「ヴ マージェ」(あなた方は食べる)と、そのままですが、「vous aimez」 (あなた方は愛する)となると、「ヴザメ」とリエゾンして新たにザの音が発現します。英語でも、「ここに」という意味の「there」で、「there are」が「ゼア アー」でなく「ゼアラー」になりますよね。 まあ、これはべつに大きな問題というわけでは無く、たとえば、「アット エーイス」という発音を安易に「アッテーイス」としないとか、そんなところを気をつければいいのではないでしょうか。要は、ひとつひとつの言葉を丁寧に発音することだと思います。もちろんリエゾンするかしないか、最終的には指揮者の判断であることは言うまでもありません。

 

「ラテン語詞」の日本語訳について

 ラテン語詞の日本語訳詞を作るのはけっこう大変なんです。練習の役に立つような訳は、ひとつひとつの語句を訳した「逐語訳」ですね。ところが宗教曲というのは「隠喩」があちこちにあって、逐語訳では何を言っているのかわからないということがあるのです。ですから、逐語訳は訳としては決してこなれたものではなく、日本語としては詩の形になっていない、ぎごちないものになるのです。ラテン語のわかる人が見たら、なんじゃこれは?単語を繋げただけじゃないかと思うでしょう。そこで、ラテン語句にはない言葉を補って、意訳するなどして文章的にまとまった日本語訳を作るわけですが、ミサ曲など有名な曲では優れた訳がありますからそれを参考にすれば良いわけですが、あまり知られていない曲だときちんと訳すのは一大事になります。


 さて筆者がラテン語訳を作るときに使うのは、もちろん「羅和辞典」です。

上の写真でページを開いているのがラテン語日本語辞書の「研究社・羅和辞典」ですが、実はこの辞典で目的とするラテン語を指定するのがけっこう難しいのです。なにしろラテン語は固有名詞ですら活用形がある「屈折語」(屈折語・・・文の中での単語の機能が単語自体の形が変化することによって表示されるという文法を持つ言語のこと)ですから、辞典には概ねその語の語幹部分だけが掲載されているわけで、目的とする語の語幹を知らないと検索することすら不可能・・・というわけです。

実はインターネット上には「ラテン語英語」辞典などがあり、ラテン語単語を指定するとその語幹と英語訳が表示される、という便利なサイトがあって、これを使えば二度手間にはなりますが日本語訳にたどり着けるわけです。

あと、左上の「ミサ曲 ラテン語・教会音楽 ハンドブック」は特に宗教音楽のラテン語発音には欠かせないもので、教会式発音とドイツ式発音の違いなど詳細な内容は読み物としてもたいへん興味深いものです。また左下の「ラテン語宗教音楽キーワード事典」はあまり知られていない詩編などのラテン語文章も掲載されていてたいへん参考になるものです。その陰になっているのは「教会ラテン語への招待」という書物で、意外と面白い内容になっています。

 

以前に、マンドリンクラブの演奏でグノーのミサ曲をやったときのことですが、渡された発音表を見ますと教会ラテン語ではなく、たぶん英語訛りかと思われる発音が指定されていて驚きました。この作者は教会の神父さんに聞いたと言っていましたが、それがそもそも間違いのもとだったと思うのです。というのは、最近のカトリック教会ではミサも日本語ですから、神父さんはラテン語の勉強をあまりしませんし、まして教会音楽のためのラテン語発音を知る人はとても少ないですから。特に外国人神父だと、自国で学んだときのナマリのままと言う人が多いのが現実のようです。まあ、日本人神父で、聖歌隊の指導をしている人なんかが比較的正確なのではないかと思います。(このことは、以前に入っていたラテン語メーリングリストにプロテスタントの牧師とカトリックの神父がいて、その人たちから聞いた話がもとになっています)

 

 

 

日本語歌詞の曲の難しさ

 2018年9月22日、大分中央合唱団の第20回演奏会でした。発足以来32年で20回の演奏会を開催しているわけですが、他にもモーツァルトのレクイエム演奏会など「特別演奏会」と銘打った会もあり、それらを合計すると25回になるかと思います。

 筆者は今年はいささか事情があって、ステージには立たず裏方に回っていましたが、おかげで前日の最終練習から当日のリハーサルなど、全ての試奏を客席などで直接聴くことができたのは良い経験になりました。演奏自体は、全体としてはレベルの高いものでよく歌い込んでおり、いささか気負い過ぎかと思うところもありましたが、聴いていて考えさせられることも多かったのです。

 特に考えさせられたのは前半第一部の冒頭曲、鈴木優人氏作曲の「深き淵より」でした。この曲はまずラテン語歌詞のDe profundis clamavi と始まるわけですが、単語の意味はdeは~から、profundisは深み、clamaviは叫び、なので直訳すると「深みから叫ぶ」という意味です。この冒頭からフォルテで力強く始まり、日本語歌詞と交互に歌う構成です。

 この鈴木氏の「深き淵より」はけっこう難しい無伴奏曲なのですが、各声部のバランスも良くまとまっていてピッチもしっかりと維持しており、音の泉ホールに心地よい和声が広がりました。問題は、全体がピアノになり、歌詞が日本語に変わった瞬間に、日本語として聞こえて来なかったのです。「ふーかきふちよーり」と静かに歌っていくのですが、それが「うーかきうちよーり」と聞こえたように思います。つまり子音が弱いと感じたのです。 もちろん、その曲の展開や歌詞は知っていますから頭の中で変換されて「深き淵より」だと認識しているわけですが、聴いたその瞬間的には日本語として認識していなかったわけです。まあこれは日本語の語頭の子音の扱い方でもあるので、子音と母音との関係つまりより子音をきわだたせることでかなりの程度に対応可能かなとも思いました。

 とにかく、日本語の歌というのは難しいものだとつくずく思ったわけですが、第2部の鈴木憲夫氏作曲の「マザー・テレサ 愛のことば」で更に日本語の歌をうたう時の問題を改めて思い知ることになりました。第一曲の「だれもそばにいてくれない」で、冒頭からただ「Kyrie」の言葉で歌っていき、途中で下3声が「だれもそばにいてくれない」と日本語で歌うという展開になっているのですが、それが「れもそ ばにいてく れーないー」という、日本語としては意味の通らない文章に聞こえるのですね。これは、一言でいえば旋律と日本語アクセントとの矛盾として捉えるべきでしょう。

 どういうことかというと、日本語共通語アクセントでは「誰」という単語は語頭の「だ」が高いのですが、この歌では「だ」よりも「れ」の音のほうが高いために、私の頭はこの音から認識してしまうため意味不明なわけです。これがつまり、日本語の高低アクセント(音楽アクセント)と音楽の旋律との矛盾なわけですね。もちろん、この曲も知っていますからすぐに脳内で修正変換されるわけですが。

 その原因はわかっています。筆者はもとアナウンサーであるためにいわゆる「共通語アクセント」はほぼ絶対的なものとして持っているわけですが、そのために異なるアクセントのものはすぐには認識できないでいるわけです。まあこれは私だけの問題でも無さそうですが・・・。この解決は困難というか、そもそも根本的な問題で解決は無理のように思えるのです。山田耕筰氏もアクセントには苦労したのだろうなあ・・・と思ったしだいです。

 日本語の曲の難しさを、改めて認識した日でした。

 

ベートーベン作曲の「交響曲第九番合唱付き」とドイツ語発音

 

年末に近づくと日本全国あちこちでこの「第九」の演奏会がありますね。ここ大分でも「大分第九を歌う会」が毎年この「第九」の演奏会を開いており、今年2018年に第42回を迎えます。大分中央合唱団のメンバーの中にもここで「第九」を歌った人は多いことでしょう。なにせ当合唱団のボイストレーナー兼指揮者の宮本修氏が合唱指揮者なのですから・・・。かく言う筆者も、これまでに6回ほど「大分第九を歌う会」の合唱団に参加したことがあります。

 

さて「歓喜の歌」とも言われるこの曲は、ベートーベンが30年あたため続けて、どうしてもそこから離れられなかったモチーフであり、オーケストラだけでは表現しきれないので人間の声がどうしても必要になった、という経緯があるわけです。

この曲の演奏にあたっては、4人のソリストと混声合唱団の歌唱部分があるのですが、もちろんその部分はドイツ語です。ふつうの人には意外と縁の無い言語なのですが、ドイツ語は母音の数も少なく、日本人がローマ字読みをしてもまあ原語の発音にわりと近いところまで行ける、というわけで、たいていの人は「ふろいで しぇーねる」とカナ書きをしてそれらしく発音しているのだろうと思います。ほとんどがアマチュアの合唱団ということもあって、近くに寄って聴くとものすごい発音・・・というのは良くある話です。

 

実は「ドイツ語」というのは、けっこう地域性のある言語だということです。どういうことかと言うと、ドイツの正式名称は「ドイツ連邦共和国」ですが、独立性のある16の州から連邦を構成されていることもあって、あちこちでその地域の訛り・方言があり、発音の統一は必ずしもされていなくて、これがドイツ語の標準発音、という基準は無いと言っても良いということのようです。

ドイツ語の方言は、大きく分けて北部方言(低地ドイツ語:Niederdeutsch)と中部・南部方言(高地ドイツ語:Hochdeutsch)に分けられますが、現代の一応の標準ドイツ語と呼ばれるものは、書き言葉としては主にテューリンゲン地方などで話されていた東中部方言を基にした言葉で、この特徴をもつルター訳聖書のドイツ語が広まったことによって標準文語の地位を獲得した、とされています。このため、「高地ドイツ語(Hochdeutsch)」という言葉は事実上の「標準ドイツ語」という意味でも用いられています。

一方ドイツ語発音に関する標準的な規範としては、19世紀の末になってテオドール・ジープスの主唱する「舞台語発音」が一応確立されたのですが、ジープスがもともと低地ドイツ語発音に傾倒していたため、発音に関しては低地ドイツ語の地域であるハノーファーの都市部の発音が最も標準語に近いと言われているようです。

日本でも、津軽弁と薩摩弁とではまったく意思の疎通ができないほど違うと言われていますが、映画・演劇・放送の世界で使われる共通語発音が一応全国での標準的な発音とされています。これは事実上NHKのアナウンサーたちが、長い時間をかけて構築してきた発音体系なのです。ドイツでも同じように、「舞台語発音」は映画・演劇・放送の世界で使われる発音体系であるわけですが、最近ではいささか古いのではないかとも言われているようです。

 

 筆者は学生時代に必修の第二言語としてドイツ語を習いましたが、文法の教授と会話の教授とで発音が微妙に違っていたことを思い出します。何が違っていたかというと、例えば定冠詞derの発音を文法側では「デる」とR音を軽く舌先を巻くような巻き舌発音なのに対し、会話側では「デア」と口を開ける、つまり母音化した発音だったと記憶しています。思えばすでにその頃、ドイツでは一般に母音化した発音になっていたのですね。

 更に、所属していたグリークラブでブラームスのドイツ合唱曲集の練習の時、この語尾の処理が各科によって様々だったと思うのですが、指導は軽く巻くR音なので、とことん母音化発音で習うドイツ語科の連中にはなんとなくやりにくそうな感じだったのを思い出します。

 

 ドイツ語舞台語発音では、クラシックにR音は軽く舌を巻く発音が基準のはずですが、これが最近の人たちにはとても古色蒼然とした発音として聞こえるそうで、日常会話でこのような舞台語発音的な発音を入れると、日本語の「さよう、しからば」的な言葉に聞こえるのでびっくりされるという話を聴きました。

 

 さて、「第九」を歌う上でのドイツ語発音はどうなっているのでしょうか。これはもう指揮者または合唱指揮者が決めることなのですが、日本ではほとんどクラシックな舞台語発音が主流のようです。外国ではどうかと言うと、本家のドイツではどちらでも良い、というかばらばらのケースもあります。かえってイギリスなどでは、やはり舞台語に統一しているように思います。手元にあるCDをちょっと聴いてみますと、けっこう様々ですね。時代によって・・・ということも無いようです。

1・カラヤン指揮、ベルリンフィル+ウイーン楽友協会合唱団 1976年録音

 バリトン独唱・舞台語 合唱・現代語 テノール独唱・現代語

2・フルトヴェングラー指揮、バイロイト祝祭オケ+同合唱団 1951年録音

 バリトン独唱・現代語 合唱・現代語 テノール独唱・現代語

3・ジュリーニ指揮、ロンドンフィル+同合唱団 1973年録音

 バリトン独唱・舞台語 合唱・舞台語 テノール独唱・舞台語

 ソリスト4人の四重唱部分で、両方が聞こえるケースもありますね。まあ演奏効果の上では、発音が混在していても意外と気にならないものではありますが。

  筆者はどうかというと、現代語発音で習ったので(もっともほとんど忘れているが・・)母音化しています。このため、「第九」などで舞台語発音の時は、気をつけないと母音化してしまうことがあります。現在日本では歌唱ドイツ語はほとんどが舞台語発音だろうと思うのですが、まあ現代語発音でも良いのでは無いかと思っています。実際のところは指揮者・合唱指揮者が決めて統一すれば良いことです。それよりも語頭・語尾の子音を明確に発音することとか、日本語に無いウムラウトのような発音の方を気にした方が良いと考えています。

 

 ところで、わが大分中央合唱団では来年2019年度の演奏会ではベートーベンの「第九」、シューマンの「流浪の民」、ワーグナーの「婚礼の合唱」など、ドイツ語詞の曲に取り組むとなった・・・と言う事から、これらの曲の発音をどうするか、ということなんですが、基本的に「現代ドイツ語」発音で取り組む事になったようです。となると、これまで頭の中に染みこんでいた舞台語ドイツ語発音を現代語発音に切り替えないといけないのですが、暗譜している曲ではこれが意外とタイヘンなのです。

 具体的には、例えば「der」という単語を舞台語では巻き舌の「デる」と発音していたのを、口をやや縦開きの「デア」という発音に切り替えるわけです。「ダイネ ツァオベる ビンデン ヴィーデる」と歌っていたのを、「ダイネ ツァオバー ビンデン ヴィーダー」と歌うようになるわけで、まあ「巻き舌」が苦手な人にとってはいささか朗報といえるかもしれませんね。

 

 このような、ドイツで語尾などのR音が母音化したのは「戦後のこと」だという話を聞いたことがあるのですが、その理由のひとつが戦後の占領軍であるアメリカの強い影響を受けた・・ということで、これはなるほどそうだろうなとナットクできます。

 そしてもうひとつの理由として、ナチス党のドイツ語発音に対する嫌悪があったというものです。

 ヒトラーの演説(というかアジテーションですが)の映画などをご覧になるとわかるのですが、ドイツ語の子音強勢・強弱アクセントの言語構造を見事に生かしている語調の中に、R音の響きが巻き舌で「ルル・・」と強調されるように響いているのです。ドイツ語というのはこのようなアジテーションには向いているなあ・・・と感心してしまうほどですが、これに拒否反応を示した人も多かろう、と思いました。

 若い世代はアメリカの影響を受け、中・高年世代はナチス党お奨め発音への嫌悪感から、巻き舌を強調しない母音化の方向に向かった・・というのは、これもなるほど、と思った次第です。

「第九」が見直されるまで

 さて、第九の初演は「大成功」だったという説が一般的ですが、本当にそうだったのだろうか・・・。うーむ私にはどうもそうは思えないのですけどね。この曲は声楽曲というより人の声を使った器楽曲とも言うべきで、今でもけっこう演奏が困難な曲が、あの当時のアマ・プロ混在メンバーのオーケストラ・合唱団で、たった2回ほどの練習で、本当にどこまで演奏できたのか?  

 1824年、ウィーンのケルントナー・トーア劇場でベートーベン作曲の交響曲第9番が初演されていますが、記録によるとこの時ベートーベン自身が指揮したそうです。すでに聴覚を失っていたというベートーベンが本当に指揮ができたのでしょうか。ほかにウムラウトという指揮者がいたということから、本当の指揮者はその人で、極端にいうとベートーベンはただステージ上にいたにすぎない、というのが本当のところではないかと思いますが、ふたり並んでいたのでしょうか。オーケストラはやりにくかったでしょうね。 それはともかく、初演時のオーケストラ・合唱団の構成はどうだったのでしょうか。この時のきちんとした記録が残っていないようなので確実ではありませんが、オーケストラは2管編成を倍にして90人ほど、合唱団は40人から80人程度だったという説が有力です。また合唱団の編成は、ソプラノ・アルトは少年合唱隊が32人、テノール・バスは大人で34人だったという記録もあるようですから、それならば合唱団は意外に少なくて、66人だったということになります。

 ソリストは、ソプラノ・アルトはともかく、男声ふたりが決まったのは直前の事で、特にバリトン歌手に楽譜が渡されたのは本番の3日前だったそうですから、恐らくはアンサンブル的にはいろいろと問題があったのではないでしょうか。

 

 初演の大成功というのは、この曲をきいて、というよりたぶん久しぶりにステージに立つベートーベンを「見に」来た人たちによるものではないか、と思うのです。なぜかというと続く再演では客席はガラガラで、トータルの収入の低さにベートーベンは卒倒寸前になって、それ以降ベートーベンが在世中この曲がウィーンで再び演奏されることは無かったからです。ベートーベン自身もこの曲は失敗だったと思ったのか、第四楽章を大幅に書き直そうと考えたようですが、果たさずに1827年にこの世を去って、この曲は歴史の彼方に埋れてしまうかに見えました。

 しかし国外においては、ウィーン初演後もしばしば「第九」は演奏されていて、翌1825年にロンドン初演、1826年にベルリンなどで初演、といった具合なのですが、どの演奏会も成功だったという記録はないのです。おそらくは、当時の指揮者たちやオーケストラのメンバー、また聴衆も含めてこのオーケストラに合唱もつくという難解な曲を正しく理解はできなかったからではないか、と思われるのです。

 1831年、パリのフランソワ=アントワーヌ・アブネックという指揮者が3年の歳月をかけてこの難解なスコアに取り組み、パリ音楽院管弦楽団との3ヶ月の練習を重ねて演奏会を開いた(ただし第四楽章抜き)のを皮切りに、この曲の再評価が始まるのです。ベルリオーズが1834年、リヒャルト・ワグナーが1840年に演奏会を聞き、ワグナーは1846年にドレスデンで、ベルリオーズは1852年にロンドンで演奏会を開き大成功を納めることになります。

 

 江戸時代の後期、徳川幕府も外国船の来航などの情勢から洋学の導入の必要を認め、長崎の出島のオランダ商館からの情報を主としての蘭学の導入をはかるようになりました。 文政六年に来日したシーボルトが翌七年に長崎に鳴滝塾を設立し、本格的な洋学を学ぶことができるようになりました。この鳴滝塾には高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海など、当時一流の学者など50人以上が集いました。この時期、いったんは興隆を見せた洋学ですが、シーボルトが日本を去るにあたって持ち出そうとした地図などが咎められた、いわゆるシーボルト事件で多くの洋学者が捕えられる、いわゆる蛮社の獄で火が消えたようになる文政期でした。「第九」が登場したのは、日本では文政七年のことでした。  日本で、日本人による「第九」公式初演は大正13年(1924年)東京音楽学校のメンバーがドイツ人教授、グスタフ・クローンの指揮によって演奏したものだとされており、プロ・オーケストラによる日本初演は現在のNHK交響楽団の前身である新交響楽団により1927年(昭和2年)に行われています。

 

 さて、筆者がこの「第九」をどう思っているかというと、「ベートーベンだなあ・・・」というしかないのですね。とにかく、合唱部分というのは意外と短くて第四楽章の6割ぐらいを占める程度のものなのですが、声楽曲としてはこれが意外に難しい。もちろんベートーベンはこの合唱部分を人の声を使った器楽曲として書いたに違いないと思っているのですが、高いし上がったり下がったり飛び跳ねるまことに歌いづらい曲なのです。この曲は。とはいえこの曲の持つ高い精神性は、やはりベートーベンというしか無いですが・・。  演奏上、合唱部分で重要なのは、第一にやはり各パートのピッチの正確さではないかと思います。アマチュアの合唱団だと、どうしてもそこが甘くなり、特にフォルテでバン!と入るところが不揃いになったりすることがあります。 何年か前のことですが、東京であるオーケストラの第九演奏会を聴いた事があるのですが、たしか東京オペラシンガースを中心としたプロ合唱団でした。途中全パートがピアニッシモで一時終止のあと、アルトが決然とフォルテでSeid umschlungen!(ザイト ウムシュルンゲン)と歌いだすところがあるのですが、このピッチがぱしっと決まっていて格好良く、(うわー!)とほとんど感動したことを思い出します。  

 

 

「夢であいましょう」で聴いた「上を向いて歩こう」 

 合唱団では2022年の演奏会に向けての練習が始まっていますが、そのうちの一曲は「九ちゃんが歌ったうた」という曲集です。

 もう半世紀以上のむかし、「夢であいましょう」というテレビ番組がありました。なにぶん昔のことなので音楽番組だったという記憶以外はほとんど忘却のかなた・・・という感じなのですが、その中で坂本九ちゃんが歌った歌のことは、いくつかかなりはっきりと覚えています。そのうちの一曲は「上を向いて歩こう」という曲でした。

 九ちゃん、坂本九ちゃんが日航機墜落事故で急逝したのは1982年のこと。彼のことを知る人はもう少なくなっているかもしれませんが、「上を向いて歩こう」のメロディをきけば、あああの歌を歌った人、と思い出す人は多いことでしょう。

 私は、坂本九ちゃんとはごく近い距離ですれ違った事があり、それはたぶん1980年か81年頃の日本テレビの、当時の麹町本社の廊下だったと思います。九ちゃんは思っていたよりもやや小柄でしたが、立ち止まりあの笑顔で誰かに挨拶をしている、その態度が端正で、きちんとその相手に向いてにこやかに挨拶していて、偉ぶらないその態度には好感が持てました。それからすぐに亡くなるとは思っていなかったので、今にしてみれば声をかけて握手でもして貰えば良かったと、いささか残念な思い出ではあります。

 前述のように、九ちゃんの歌を初めて聴いたのは中学か高校時代、「夢であいましょう」という番組の中だったと思いますが、それが「上を向いて歩こう」だったのか、「見上げてごらん夜の星を」だったのか、実は記憶ははっきりしていません。ただ、彼の独特の唱法に驚いた記憶がありますので、「上を向いて」だったのだろうと思っているのです。どういうことかと言うと、唱法というよりはクセと言ったほうが良いかもしれませんが、当時のアメリカのロックンロールのイメージが強い、リズム強調の歌い方だったからです。私には、エルヴィス・プレスリーの歌い方のイメージが重なって聞こえるような気がしたわけです。それを文字で表現するのは難しいですが、頭の「うえをむいて・・」の部分が「うっふへぇぅおむっふふぅいてぇ」というような、独特の修飾音の入ったようなリズムの歌い方に聞こえたわけです。

 1982年8月12日の午後8時過ぎには、私は勤務先のテレビ会社の主調整室という部屋にいて、当直の技術部員と雑談を交わしていたとき、テレビの画面に東京発の日航機がレーダーから消えた、という速報が表示され、その場はいっきに騒然となりました。1979年まで大阪支社に勤務していた私は、東京発大阪行きのこの便は最終便の一つ前のため、いつもとんぼ返りのビジネス客が多いことを知っており、しかも盆前ということもあって恐らくジャンボ機が満席になっているだろうと考え、これは空前の犠牲者が出るのではないかと思ったのです。恐らく私の大阪での友人知人のうちの何人かが、乗っているに違いないと思いながらモニターを注視していたのを思い出します。
 坂本九ちゃんの遺体が墜落現場で発見されたのは、それから数日後のことでした。


 ところで、この「上を向いて歩こう」の歌詞のうち、「ひとりぽっちのよる」という部分の「ぽ」は半濁音なのか濁音なのかという議論があり、それは今でも結論が出ていないようです。というのは、大学に入ってグリークラブに入るとすぐに渡された楽譜の中に、指揮者の北村協一氏編曲のこの曲があったのですが、この楽譜では濁音の「ぼ」になっており、私はなんのギモンも持たず濁音で歌っていました。ところが団員の中から「あれは半濁音が正しいのではないか」という声があったそうで、学生指揮者やパートリーダーたちの間で議論になった、というわけです。あとで聴いた話では、おそるおそる北村協一氏に聞いたところ、「どっちでもいいんだ、同じことなんだ」と言われて幕となった、というような話を思い出したわけです。(この北村協一氏編曲の楽譜はカワイ出版のグリークラブアルバム3に所載されており、濁音表記です)
 ギモンも持たず・・と書きましたが、この楽譜ではバスパートは「ブン ブン ブン」とひたすらボイパのように声を張り上げていたため、歌詞に気が回らなかった、のが真相のようです。

 あ!思い出した。「歌詞に気が回らなかった」のではなく、新人演奏会に向けてバリトンソロの楽譜を渡された私はその曲に必死で、それ以外のことには余裕がなかった、というのがホントの真相みたいです。


 坂本九 本名 大島 九 (おおしま ひさし)

神奈川県川崎市川崎区 出身
1941年12月10日 生まれ ~ 1985年8月12日 死去

残した曲: 上を向いて歩こう 見上げてごらん夜の星を 明日があるさ 等
高校時代は ロックンロールに熱中
1958年 日大高校在学中、バンドボーイを経てボーカル兼ギターを経験
 同年8月、日劇ウェスタンカーニバル新人賞を受賞
1961年10月 「上を向いて歩こう」リリース
1971年12月 女優の柏木由紀子と結婚
1982年8月12日 日航123便墜落事故で死去 享年43歳
 8月16日 現場付近で遺体を確認

大分中央合唱団の結成まで

1・新しい合唱団を作りたいと考えた

 少し昔話になります。これでおわりです。

 この「そこが知りたい」の冒頭、「合唱団のスタート」のところに、「このため1986年10月25日から大分中央合唱団の歴史を起算することにした」という一節があります。ここだけを読むと大分中央合唱団はわりとすんなりスタートしたように思われますが、ここに来るまでにけっこういろいろな課題をひとつひとつ片付けて来たのです。

 「新しい合唱団を作りたい」と考えるようになったのはいつだったか、それはもう忘却の彼方になってしまいましたが、漠然としたイメージを持つようになったのは、たしか大学生の1年生か2年生のころであったように思います。ただ、その頃のイメージとしては高校の音楽部(合唱部)のOB合唱団のような組織が念頭にあったはずで、そのために高校音楽部OB会を組織し、会長というポジションについてOB会演奏会の復活開催のような方向で進めていたわけで、まだ一般の混声合唱団という形までたどり着いてはいませんでした。しかし、合唱団としての組織体を作っていくのはほとんど同じようなもので、ただどのような形で展開して行くか、そして維持して行くかの方向性が明確になっていれば、なんとかなるものだとは思いました。もっとも設立するよりも、維持することのほうがけっこうたいへんだと言うのは、やってみないと判らなかったことですが・・・。

 新しい合唱団に向けて、少しづつ具体的に動き始めたのは、1983年のはじめ頃だったと思いますから、もうほぼ40年近く昔のことになってしまいました。


2・合唱団をつくるにはどうすれば良いか

 イメージがしだいに形となっていく中で、具体的な目標として頭の中にあったのは、故藤沼恵先生がお元気な頃のウイステリアのような、和気藹々として楽しくしかもレベルの高い合唱団、という記憶です。高校時代にふとしたご縁(音楽では無く!)からウイステリアの練習に参加させて頂いていましたが、先生が脳卒中で倒れて県立病院に入院されたのでお見舞いにうかがった際、「みんな東京に行くと大分で音楽をやる人がいなくなる」という先生のお話が、いささか重く記憶の中に残ってしまったことはよく覚えています。1969年、大分で設立されたばかりの会社に入社することが決まり、そのことを報告に県立病院を訪れたのですが、まさにその直前、先生は帰らぬ人となってしまわれたのです。

 かつてのウイステリアのような合唱団をつくるにはどうすれば良いか。ただ突然ひとりで「合唱団をつくる」と宣言したってできるものではありません。指揮者・ピアニストといった音楽スタッフはもちろん、代表者・パートリーダー・マネージャー、さらに楽譜や衣装、会場係など任務に応じたスタッフが必要であり、ピアノのある練習会場の確保も必要です。それに事務面で最大の課題は、さまざまな支出に対応する以上の収入が必要だということで、常識的な人数が集まったとして会費をいくらに設定するか、など解決しなければならない課題は山のようにあるわけです。これらの多くはスタートしてから判ったことでもあるのですが、なんとか切り抜けて来たあ・・・、という記憶だけが残っています。

 ひとつ残念なことで記憶にあるのは、1986年の9月、つまり創立直前のある日父が脳梗塞で倒れて入院したため一時的にも創立メンバーの会合に出られないことがあったのですが、やっと落ち着いて復帰したところが合唱団の名称が「大分中央合唱団」と決まっていたことで、いろいろと名称の候補を考えていたのが、残念ムダになってしまいました。


3・今後の発展を考えると「一般の合唱団」でなければならない

 どのように作っていくか。私が考えたのは、まず親しい高校音楽部OBを中心とした初期メンバーを確保し、その上で「設立集団」というような合唱経験者グループに広げていけばうまく行くだろう、ということでした。ところがスタートしてみると積極的に参加してくれるOBたちは多くが県外在住者だとか、すでに他の合唱団に所属しているためOB会合唱団なら参加したいが一般の合唱団では難しい、など意外と参加者を集めるのは難しかったのです。このため、初期メンバーの中には「OBの常設の合唱団」としてスタートしてはどうかという意見もありましたが、私は将来のことを考えると「一般の混声合唱団」として広く参加を呼びかけたいと思っていましたので、これには賛同しませんでした。

 それでも、OB中心に20数人の参加者が見込めることから1986年の結成の日を迎えることになったのですが、第一回の練習参加者がわずかに16人だったので、これは困った、と頭を抱えたわけです。それは、この人数では初期費用をまかなうことはもちろん、今後予想される支出に対しては絶対的に収入が不足するか、と思ったからです。なにしろスタートしたばかりの組織でお金は無く、会報のコピーも最初は勤務先のコピー機を拝借したり(もう時効で許して下さい)、楽譜のコピーは安いところを探し回ったりしていました。ですから、12月に参加者が30人を越した時には収支を計算して「これならなんとかなる」と本当にほっとしました。あのころ、我が家で団員募集のチラシをつくってイベントなどで配ってまわったり、知人友人手当たりしだいに合唱団に参加しませんかと勧誘したことなど、今となっては苦くも懐かしい思い出として記憶の中にあります。

 もちろんこれらは私ひとりがやったわけではなく、高校同期の宮本修くん、後輩の河野昭二くん、薬師寺和光くんといった強力なメンバーの推進力のおかげであるわけです。これに加えて高校OBの後輩でもある家内は、ウイステリアのもと団員でもあり、女声集めや衣装係として幅広く活躍してくれたことは、思えば誠に心強いことでありました。

 最後に、創立時の中心メンバーは全員が何らかの形で故藤沼恵先生との関わりを持ち、それによって合唱活動に参加するようになったものたちだったということは、不思議でもあり、しかし当然のことのようにも思えます。私は亡き先生に、私は私に出来ることを精一杯いたしましたと、先生に報告することができるように思います。

 大分中央合唱団の設立にかかわって40年近く、いつの間にかすぎてしまいました。

 

                               これでおわりです


    

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